三月の低山を歩く―五つの山行から見えてきたこと
大学に再び入学する2023年以前は、毎週のように山を歩いていた。ところが2024年4月に大学生になってからは、土曜・日曜は学業に費やされ、春と秋のベストシーズンに登山をしないまま終わってしまった。ずいぶんと足の筋肉も落ちてしまい、危機感を抱いている。この3月、日も長くなってきたので、再び毎週山に出かけることにした。以下は、その5回の山行記録である。
3月1日:日和田山・座禅岩、未完の場所へ戻る
3月最初の山行は、日和田山の座禅岩を目指すものだった。2021年の夏、場所を見つけられずに終わった記憶が残っている。地図上では示されているのに、現地では辿り着けない。その違和感が、ずっと心に引っかかっていた。今回はその「宿題」を回収するための再訪である。
巾着田から山頂までは、子ども連れやハイキングツアーで賑わっている。よく整備された道を歩いているかぎり、迷うことはない。しかし駒高尾根に入ると人の気配は急に薄れ、山は静かな表情を取り戻す。座禅岩は登山道から外れた急斜面の先にあり、地元の人に場所を教えてもらって、ようやく辿り着いた。途中、すぐ隣を野生の鹿が駆け抜けていったのも印象的だった。
整備されたルートから一歩外れるだけで、山はまったく違う顔を見せる。最初の一本は、そのことを強く印象づける山行だった。
ヤマレコの登山記録:何とか座禅岩にたどり着く(日高・日和田山)
3月7日:愛宕山・五常の滝、尾根をつないで歩く
次に歩いたのは、武蔵横手から愛宕山、水晶山、深沢山と、小さなピークを連ねる尾根だった。ひとつひとつの山は目立たないが、尾根をたどっていくことで、ひと続きの地形として立ち上がってくる。日和田山に比べると人は少なく、すれ違うのもまばらで、静かな山行である。
一番は、早春という季節の快適さだった。汗をかかず、虫もいない。枯れ葉の積もった尾根道は柔らかく、見通しもよい。尾根の起伏や進む方向が自然と身体に入ってくる感覚があった。
北向地蔵や五常の滝といった場所も印象に残ったが、それ以上に、淡々と尾根をつないでいく歩きのリズムそのものが記憶に残っている。山頂を目指すというより、歩くこと自体が目的になっていた。
ヤマレコの登山記録:早春の大峰高峰・五常の滝ハイキング
3月14日:雨乞山・不動山、未完の山を歩き直す
三本目は秩父北部の縦走だった。2022年の夏、暑さと虫に耐えきれず、榎峠で引き返したルートである。同じ場所でも、条件が変わればまったく違う山になる。そのことを確かめる意味もあって、今回は早春を選んだ。
結果として、雨乞山、不動山を経て野上駅まで歩き通すことができた。距離も長く、これまでより一段踏み込んだ山行だった。開けた雨乞山の山頂や、石尊大権現から見渡す秩父の山並みは、季節の違いを強く感じさせる風景である。
途中、くるみを割った跡や鹿の痕跡に気づいたり、峠の場所が曖昧であることに戸惑ったりする場面もあった。山を「歩く」だけでなく、周囲を「読む」感覚が、少しずつ生まれてきた。
ヤマレコの登山記録:早春の雨乞山・不動山、秩父北部を縦走
3月21日:阿須丘陵と霞丘陵を読む
四本目は入間から青梅へ、阿須丘陵と霞丘陵をつないで歩いた。標高差はわずかだが、実際には踏跡の薄い区間や渡渉、急登もあり、想像以上にワイルドだった。とくに阿須丘陵の東側では、道が落ち葉や灌木に覆われ、地図を確認しながら進む場面も多かった。
一方で、霊園や鉄塔、宗教施設、林道といった人の痕跡が連続して現れる。自然の中にいるというより、人の生活の縁を歩いている感覚に近い。霞丘陵に入ると整備の度合いが一気に高まり、同じ丘陵でも印象が大きく変わるのも興味深い。
山頂を目指すのではなく、丘陵という地形そのものをたどる。そんな歩き方の面白さを、この山行で知った。
ヤマレコの登山記録:入間・阿須丘陵から青梅・霞丘陵へ
3月28日:高尾山、超人気の山を越えて
最後は高尾山から小仏城山を経て相模湖へ。10数年ぶりに訪れた高尾山は、想像以上の人出だった。1号路の整備は徹底しており、木道や階段が続き、まるで公園のようでもある。信仰の山としての歴史と、観光地としての現在が重なっている。
しかし城山を越えて神奈川県側に入ると、人の数は一気に減り、道も一般的な林道へと変わる。滑りやすい下りや細い道もあり、歩き方に注意が必要になる。
そして印象に残ったのは、山頂ではなく、相模川に架かる弁天橋付近の風景だった。水辺の開けた空間と、山から下りてきた身体の感覚とが重なり、山行の終わりを強く印象づけた。山の記憶は、必ずしも頂上で決まるわけではない。
ヤマレコの登山記録:高尾山から小仏城山を経て相模湖へ
まとめ:3月の低山を歩いて見えたこと
こうして五つの山行を振り返ると、いくつかの共通点が見えてくる。まず、3月は低山を歩くのに適した季節である。見通しがよく、虫も少なく、身体的な負担が少ない。その分、地形や周囲の細部に目が向きやすくなる。
また、印象に残るのは山頂ではなく、途中の場所だった。岩、峠、尾根、橋、祠。そうした小さな場所が、山の記憶を形づくっている。歩き続ける中でふと現れる場所こそが、体験の核になる。
さらに、低山は自然だけでなく人の営みと密接に結びついている。集落、林道、宗教施設、鉄道。それらが連続する中を歩くことで、山と暮らしの距離の近さが実感される。
毎週歩くことで、山の見え方は少しずつ変わった。低山は決して単純ではない。むしろ複雑で、いくつもの層が重なっている。その豊かさを、3月という季節が静かに浮かび上がらせていた。
















