GPAは学びを測れるのか―通算3.96で気づいた「罠」
2度目の大学生活の半分が終わり、通算GPAは3.96になった。数字だけ見れば、大学での学びは順調に見える。しかし、学期が終わるごとに、達成感よりもむしろ疑問が大きくなるようになった。
「大学の学びとは、そもそも何を測ろうとしているのだろうか。」
GPAという分かりやすい評価指標
大学での学びを語るとき、GPAという言葉は避けて通れない。GPAとは Grade Point Average の略で、各科目の成績を数値化し、その平均値として示す評価指標である。多くの大学では、成績を0から4までの点数に換算し、その平均値を学生の学業成績として表す。履修科目全体の成果を一つの数値で示すため、客観的で分かりやすい。奨学金の選考や大学院進学の審査などでも参照されることが多く、大学生活において重要な指標であることは間違いない。
数値で示される評価は明快である。努力が結果として可視化され、他者と比較することもできる。その意味でGPAは、大学教育における合理的な評価制度の一つといえる。
早稲田大学におけるGrade Pointは、A+は4点、Aは3点、Bは2点、Cは1点、不合格は0点である。各科目の単位数にこのGrade Pointを掛け、その総和を履修した総単位数で割った値がGPA(Grade Point Average)として算出される。
しかし、この合理的な制度には一つの落とし穴がある。
高GPAの「罠」にはまる
私自身、大学に再入学してからこのGPAという指標を意識してきた。社会人として再び大学に通い始めた当初は、大学で学ぶという環境そのものが新鮮であり、講義を受け、文献を読み、レポートを書くという作業に夢中で取り組んでいた。その結果、1年目春学期のGPAは3.74となり、自分としては十分に満足できる成果だった。
その後、大学での学び方のコツが徐々につかめるようになった。レポートの構成、引用の仕方、論理の組み立て方など、課題への取り組み方は洗練されていく。すると1年目秋学期にはGPA4.00となり、自分でも予想していなかった結果に驚いた。さらに2年目の春学期・秋学期も共に4.00だった。
しかし、2年目の秋学期より、私は一つの「罠」に気づくことになる。学びの志向が、問いを深めることよりも、高GPAを維持することへと少しずつ移っていったのだ。課題のテーマを選ぶときも、レポートを書くときも、無意識のうちに「評価基準から外れないこと」を優先するようになっていた。言い換えれば、問いの探求ではなく、「高GPAを獲得する方法の探求」に陥ってしまったのだ。
学問は答えではなく問いから始まる
成績が良いこと自体は否定されるべきものではない。GPAは大学教育における合理的な評価指標である。しかしここで一つの疑問が生まれる。大学の学びは、何を目的としているのだろうか。
もし学びが「正しい答えを見つけること」であるならば、GPAは有効な指標である。しかし実際の学問は、必ずしも明確な答えを持たない。重要なのは、どのような問いを立てるかにある。何を疑問とし、どこに問題を見出し、それをどのように言語化するのか。
学問とは、既にある答えをなぞることではなく、問いを発見し続ける営みである。
このように考えると、GPAは学びの一側面を示すにすぎない。課題に正確に応答できたかは測れても、良い問いを立てられたかを測ることは難しい。問いの生成は、本質的に数値化しにくいからである。
大学で学ぶとは、答えを集めることではない。既存の知識に違和感を持ち、新たな問いを立て、その問いをもとに思考を深めていくことにある。
GPAは一つの指標にすぎない。大学の学びを決定づけるのは、その数値の外側にある問いである。大学とは、答えではなく、問いのための場所である。













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