阿弥陀一尊図像板碑、33年に一度開扉される秘仏(ふじみ野)

ふじみ野市川崎。新河岸川周辺をしばしば散歩するので、ここに小さな共同墓地があることは知っていました。墓地には小さな木造の建物があります。倉庫とばかり思っていたら、実は中世の板碑を納めた阿弥陀堂であることに気が付きました。

阿弥陀一尊図像板碑(ふじみ野)
共同墓地の中にある小さな阿弥陀堂

板碑(いたび)は供養塔として使われる石碑のこと。板石卒塔婆、板石塔婆と呼ばれます。関西であまり目にすることがなかったのですが、首都圏で生活するようになって、関東平野のそこかしこに板碑が分布していることを知りました。関東地方の板碑の多くは秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれています。

板碑の造られた時期は鎌倉時代から室町時代前期に集中していて、鎌倉武士の本貫地とその所領に限られています。そのため、鎌倉武士の信仰と密接な関連性があると考えられています。

阿弥陀一尊図像板碑(ふじみ野)
お堂の中に板碑が納められた仏壇あり

ここの板碑は、小さなお堂の中にある木製の仏壇に収納されており、残念ながら実物を見ることはできません。説明板には「33年に一度開扉される秘仏」と書かれています。

阿弥陀一尊図像板碑 市指定文化財
昭和38年9月3日指定

 鎌倉末期から南北朝初期の作と推定される「阿弥陀一尊図像板碑」は、阿弥陀堂の本尊で、33年に一度開扉される秘仏です。もとは川崎字土橋の石橋になっていたものを、阿弥陀堂とともに火災で消失した本尊の代替として祀ったと伝えられています。
 この板碑は、緑泥片岩でつくられており、大きさは高さ128センチメートル、最大幅41センチメートル、厚さ4.5センチメートルで、頂部には山形や二条線、浅い切り込みの枠線が彫られています。
 阿弥陀堂は再度消失し、この板碑の表面も火災による変色や破損がみられますが、中央の蓮座上に、二重輪光や放射光、梵字で岸た光明真言(仏の真実の言葉)を背景にした浮彫の阿弥陀立像は残り、均整のとれた美しい姿を今に伝えています。

平成13年11月(令和2年改定)
ふじみ野市教育委員会

阿弥陀一尊図像板碑(ふじみ野)
現地の説明板にある実物写真

阿弥陀一尊図像板碑、次はいつ開扉予定なのか気になるところ。その際は、必ず出かけてみたいです。

阿弥陀一尊図像板碑の入口の地蔵
共同墓地入口のお地蔵様

阿弥陀一尊図像板碑(ふじみ野市 公式サイトの解説)

板碑は、鎌倉中期から戦国時代初期にかけて、阿弥陀仏などを信仰し、死後の極楽往生(ごくらくおうじょう)や死者の冥福(めいふく)を祈願して、最初は武士などの有力者、後には庶民によりつくられました。青緑色の石材[緑泥片岩(りょくでいへんがん)]の板によりつくられていることから「青石塔婆(あおいしとうば)」、「板石塔婆(いたいしとうば)」などとも呼ばれます。板碑の多くは、信仰の対象になる仏を表す梵字(ぼんじ)が刻まれていますが、この板碑は阿弥陀如来の図像が彫刻されています。蓮座の上に優美な阿弥陀如来の立像が描かれ、頭部を取り巻くように蓮と輪光が彫られています。年月日が記されている部分がはがれ落ちているので、作成時期は不明ですが、形態から鎌倉時代末期から南北朝時代(14世紀中ごろ)のものと思われます。高さは128センチメートル、幅41センチメートル、厚さ4センチメートルです。

ふじみ野市 考古資料