新河岸川舟運の起点、仙波河岸・扇河岸を散歩

コロナ禍の緊急事態宣言より約ひと月、遠出はやめて、休日は家の周りを散歩している。コースは新河岸川と、不老川・九十川といった新河岸川支流の土手。遊歩道が整備されており、4月は河川敷に菜の花が咲き誇り、気持ちがよい散歩が楽しめた。

新河岸川・川越市寺尾ポンプ場周辺

江戸〜川越の舟運で栄えた新河岸川

新河岸川は江戸時代から明治時代にかけて、江戸と川越を結ぶ舟運が栄えた。江戸時代前期、川越藩主となった松平信綱(島原の乱を鎮圧した幕府方の総大将であり、後に老中として幕藩体制の確立に寄与した)が、この川に多数の屈曲を持たせる改修工事を行い(「九十九曲り」といわれる)、流水量を安定させ、江戸・川越間の舟運ルートとして整備したのだ。川沿いに多くの河岸(かし)=船着き場が作られ、大いににぎわったそうだ。首都圏郊外に伸びる私鉄沿線のようなものだろう。

だが、1910年代、大正時代に入ると、新河岸川とほぼ平行するように東武東上線の開通。新河岸川の舟運は衰退した。昭和初期まで、肥船(肥料となる糞尿を運ぶ船)が行き来していたらしいが、今では小さなボートさえ見ることがない。

「コロナ禍は地元を知るよい機会」と考え、新河岸川の河岸を徒歩で一つひとつ訪ねてみることにした。

新河岸川は、もともと川越市東部の伊佐沼が水源で、そこから南に流れていた。今は九十川(くじゅうがわ)と呼ばれている。現在、川越の市街地の外側をぐるっと時計回りに流れ、仙波河岸史跡公園付近からは南東に流れている。

明治時代の仙波河岸の様子(公園内の案内板より)

川越には城下町の南東郊外に扇・上新・牛子・下新・寺尾の5つの河岸があり、「川越五河岸」と呼ばれていた。幕末、川越の商人たちは、川越五河岸よりも城下に近い上流に河岸を作ろうした。川越藩の分領であった上野国・前橋の生糸が、海外へ輸出することで莫大な富を生むことに注目したのだ。

1869年(明治2年)に仙波まで運河の開削を開始。1879年(明治12年)に仙波河岸が生まれた。城下町直結の港といえる。仙波河岸の完成により川越五河岸は衰退、仙波河岸に近い扇河岸は廃止となった。

城下の港・仙波河岸から散歩をスタート

仙波の河岸跡は「仙波河岸史跡公園」として整備されている。開園は2004年。川越に住んで20年、国道16号線は幾度となく走っているのに、恥ずかしながら国道の真下にこんな緑があふれる公園があることを知らなかった。

仙波河岸史跡公園内にある河岸(船着き場)跡

仙波河岸は、すぐそばにある愛宕神社の下から流れ出る「仙波の滝」の水路を利用、神社崖下に作られた。河岸跡の他にも、自然観察湿性地、公園外の池に続く水路があり、低湿地であることがわかる。この辺りの地名は「岸町」という。河岸の名残だろうか。

園内は、緑豊かでちょっとしたちょっとした森林浴が楽しめた。だが、夏は蚊やハエがが出そうな気が。実際にはどうなのだろう。

左/崖の上が国道16号線 右/水路の上を木道が巡る

公園から崖の上に続く階段を登る。途中、愛宕神社と延命地蔵尊の分岐があった。延命地蔵尊の脇にこのような解説があった。

 この延命地蔵尊は、今から約270年前の元文元年(1736)に祀られました。 延命地蔵尊は、延命、利生を請願する地蔵菩薩であります。 新しく生まれた子を護り、短命、夭折(若死に)の難を免かせるという。お姿は、左足を垂下する半跏像が多いといわれていますが、ここの延命地蔵尊も半跏像であります。片足を他の足の腿の上に組んで座っております。

見上げるような高い位置に石像があるのが印象的だった。

延命地蔵尊

古墳のてっぺんに建つ愛宕神社に上る

次に愛宕神社へ。古墳の上に立つ神社だ。てっぺんに愛宕神社が建つ古墳が「父塚」、国道16号線を挟んで浅間神社の社殿が建つのが「母塚」と呼ばれ、仙波古墳群と呼ばれている。父塚は東西30メートル・南北53メートル・高さ6メートル。母塚と共に6世紀中葉に築造されたと見られている。

古墳の前に建つ愛宕神社の鳥居

案内板には、愛宕神社の祭神は火産霊命(ほむすびのかみ)で、1593年(文禄2年)、山城の国(今の京都)の愛宕神社から分霊を奉祭したのが縁起。古来、火伏の神、麻疹の神として信仰され、麻疹が軽く済むように、母親が子供を抱いて社殿櫓の下をくぐり抜ける習わしがあると記されていた。

また、本殿に上がる階段前の案内には、このような解説あり。

 当社は仙波河岸にある。仙波河岸は新河岸川舟運の最上流の河岸であり、古くから東照宮・三芳野神社の資材運搬時に利用されているが、正式な河岸開設は明治初年である。河岸としては新しいが当地の歴史は古く、『風土記稿』に「塚三、六角堂塚、猫山塚、甲山寺塚の名あり」とあり、当社について「愛宕社 円径五十間、四方の塚上に立、この社頭よりの眺望東南の方打開けて、最も勝景の地なり、又爰より坤の方二三町を隔て浅間の社立る塚あり、土人いかなる故にや其塚を母塚と呼び、当所を父塚とわかちいへり」と載せている。

 また『武蔵名所図会』には「祭神彦火々出見尊、別当万仁坊当山派修験、往古此所迄武蔵野なりし頃此辺の野中に百塚あり、就中富士浅間之山と此愛宕尤大也、依而父塚母塚と云ひしか何の頃にや浅間と愛宕の両社勧請せり。瀑布麓に有清潔之冷泉にて参詣之人かならす此飛泉に垢離す、毎年六月廿四日を以て祭祀あり、此日柴焼護摩修行ある。摂社婆伽羅龍王」とある。

 社記は「祭神火産霊命、平安の頃山城国愛宕山より分霊を奉斎、天文九年川越城大道寺駿河守の許状、文禄二年山城国愛宕山長床坊内東光坊の末寺とする書状があり。慶長一九年川越城主より中田一反中畠一反の寄進がある」と記す。社殿造営は文化七庚午歳六月十五日別当万仁坊銘の本殿棟札がある。現在の本殿は関東大震災後の再営である。

階段を上がって社殿があるてっぺんに立つ。残念ながら、周囲の見晴らしはよくない。社殿の両側に配されたドラム缶が気になった。何に使用するのだろう。妙な荒々しさを感じた。

新河岸川を下り、扇河岸へ

仙波河岸史跡公園の東口を出ると、目の前に新河岸川に流れている。川の向かい側には浄水場がある。現在も水にゆかりのある場所のようだ。

新河岸川を数百メートル南下すると、JR川越線の鉄橋が見えた。鉄橋の下を遊歩道がくぐり抜けられるようになっている。この鉄橋から東側は広大な水田になっている。川越線は単線で、かつ見通しがよいため、鉄道ファンには絶好の撮影スポットでは? 大宮方面への上りと川越方面への下り、一本ずつ電車を見送った。

JR川越線の新河岸川橋梁

鉄橋からしばらく南下すると、不老川との合流点に到着。南側には新扇橋と橋から続く道路とJR川越線との立体交差が見える。

仙波河岸の登場により廃止された扇河岸は、新扇橋の辺りにあったようだ。

新河岸川と不老川の分岐点。先に見えるのが新扇橋

扇河岸の由来。元々丸池と呼ばれる付近の湧水が集まる池があった。1682年(天和2年)12月28日、お七火事として知られる天和の大火の際、川越藩主・松平信輝の江戸屋敷が類焼。再建用木材を入間川を筏で下って川越で崩し、船に積んで江戸へ運ぶことになった。

ところが、南方の新河岸は川越の城下から遠く、また十分な広さの空き地が用意できないため、新たに丸池を埋め立て河岸としたのが、扇河岸の始まり。埋立地の形が扇に似ていたため、扇河岸と呼ばれるようになったらしい。

先に述べたように、仙波河岸がに開かれると、扇河岸の船問屋は次々と移転・廃業し、最後に「中安」(中屋安右衛門)1軒のみが扇河岸に残ったという。

新河岸川舟運の起点、仙波河岸・扇河岸を歩いた半日だった。

扇河岸があった新扇橋付近から見た川越市街