高坂館、東松山の高済寺に残る城址へ
川越市の北、東松山市に残る小さな城址、高済寺に残る高坂館(たかさかやかた)を訪れた。
小さな城址、砦跡を訪問する場合、付近に車を駐める場所がなくて困ることが多い。この城址に立つ高済寺は曹洞宗の禅寺。参拝者向け駐車場に駐めた。もちろんまず本堂に参拝し、賽銭を入れた。
本堂は禅寺らしく凛とした佇まい。
高坂館は、武蔵江戸氏の流れをくむ豪族・高坂氏の居館で、戦国時代は北条氏に仕えていたとされていた。が、近年の発掘調査により、館は別の場所にあった可能性が高いらしい。
本堂の西側には土塁、空堀が残る。これは、戦国時代、1562年、北条氏が松山城を攻める際、北条氏政が高坂に陣を置いた時に作られたもの。後北条氏に興味ある人はチェックしておきたい砦跡だ。
後北条氏が滅び、徳川家康が関東に入ると、この地に3千石を与えられた加賀爪政尚(かがづめ・まさなお)の居館になった。加賀爪氏は後、遠江国に掛塚藩を立藩。初代藩主・加賀爪直澄は、最終的に1万3000石の大名となったが、1681年(天和元年)2月、二代藩主・加賀爪直清が、旗本の成瀬正章と領地の境界をめぐって争う事件を起こし、幕命により所領を没収された。
土塁の上には「加賀爪氏累代之墓」があり、政尚、直澄らの宝篋印塔が並んでいる。
なお、掛塚藩はこの地に藩庁があったことから、高坂藩とも呼ばれている。
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