滝の城跡、所沢・武蔵野線を望む崖の上の平山城址へ

今年春から続けている後北条氏の城址巡り。先週は所沢にある滝の城跡へ出かけた。

まずは城の由来について、滝の城跡保存会作成の説明書より写し。

埼玉県指定史跡「滝の城跡」
 滝の城は東川と柳瀬川の合流地点に築かれ、南側は高さ約25mの急崖、北側は三重の堀や土塁によって守られています。本郭・二の郭・三の内郭とそれらを囲む外郭・出郭で構成される多郭式の平山城で、内郭は現在も遺構が良好に残されていることから、大正14年に埼玉県史跡として文化財指定されています。
 滝の城は関東管領山内上杉氏の家臣で武蔵守護代などを歴任した大石氏が15世紀後半に築いたと言われてきましたが、最近では扇谷上杉氏の家宰で江戸城・河越城を築いた太田道灌が両城を結ぶ「清戸道」の中間地点に滝の城を築城したとも考えられています。「道灌状」と呼ばれる書状に「江戸近所豊島勘解由左衛門尉・同弟平右衛門尉両所構対城候之間、江戸・河越通路依不自由・・・」とあり、これによると豊島兄弟が両所(石神井城・練馬城)に対城を構えたので江戸城と河越城の連絡が不自由になったというのです。この両城に挟まれていたのが「清戸道」であり、「清戸道」は江戸城から練馬大泉・新座市・清瀬市を通り滝の城へ入ったと思われ、現在もその名残りが見え隠れしています。
 やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して北条氏が台頭、早雲の孫の氏康との河越夜戦(1546)で扇谷上杉氏は滅ぼされ、滝の城は北条氏康の次男、氏照に引き継がれました。その後「境目の城」として重要な役割を担い、柳瀬川の対岸(志木街道の桜株)には番所が置かれ、三田氏に輪番で警固させていたことが、永禄7年(1564)に発給された「北条氏照 清戸三番衆交代命令状」として残されています。更に東へ北条氏の支配が進むと滝の城は河越城・岩付城への「つなぎの城」となり、永禄7年〜天正5年にかけての下野方面への出兵の際には陣備えの地にもなっています。滝の城の外郭もこの時期に整備され、兵站基地として多くの兵が駐留できるようにしたものと思われます。しかし、天正18年(1590)滝の城は豊臣秀吉による小田原攻めの際、浅野長政勢の北方からの攻撃を受けて、一日で落城したと言われています。

滝の城跡保存会作成

滝の城、少々場所を探すのに苦労したが、後北条氏の家紋・三つ鱗の鮮やかな旗を見つけて、入り口を発見。車に乗ったまま鳥居をくぐり、いきなり二の郭跡にある神社の駐車場に乗り付けた。

車を下りると、目の前が本郭である。いきなり本郭から見学するのももったいないので、総構を一周してから、最後に本郭を見ることにした。下が、城の縄張り図。

本郭を囲む内濠に沿って進む。内堀の幅はそんなに広くはないが、本郭までの高さは相当ある。小さい規模ながら入り組んだ二重堀もあった。

下は、本丸を守る虎口と東日本の城特有の馬出。周囲を見回すと城の構造がよくわかった。

馬出しの北東には三の郛跡が。別名「茶呑み郭」。北条氏照が在城の折にはここで家臣と共に茶の湯を楽しんだとか。

三の郛の南側は急峻な崖になっている。本郭(下の写真の中央)と崖の下(下の写真の左端)を見比べると、平山城とはいえ相当な高さがある。

三の郛を回るように崖の下へ階段が続いている。少々長い階段を下りると、突然、整備された運動公園に着いた。

公園の遊歩道を歩き、「滝の城」の名のもとになったといわれる滝跡を見に出かけた。途中、いくつも「マムシに注意」の看板が立っていた。しかし、ここいらは川沿いの低地、マムシよりも蚊に大いに刺されてしまった。

城の崖の下を時計回りに進み、本郭にある城山神社への登り口にある鳥居を発見。一気に階段を登りきると本郭に到着。「滝之城本丸之跡」という立派な石碑が立っていた。

本郭は広い神社の境内となっていた。ここは城址というよりも、どこにでもありがちな神社の風情だ。賽銭を入れて参拝。城巡りのご縁に感謝。

境内、すなわち本郭の南からは清瀬方面が見渡せる。確かにその先には石神井城、練馬城があり、その「備え」の意味がわかった。すぐそばにJR武蔵野線が通っており、時折、電車が高速で通過していった。逆にいうと、武蔵野線の車窓から滝の城の全貌が見られるはずだ。

ところで、神社の境内には「夫婦樫」という古木があった。7つのご利益が書かれており、最後の「浮気封じ」というご利益が微笑ましかった。

最後に滝の城の外郭、出郭方面を散歩した。城の面影が色濃く残る内郭と違って、外郭、出郭があった場所は住宅地になっている。ただ一か所、物見やぐら跡のみ小さな塚が残っており、彼岸花が咲いていた。兵どもの城の跡には彼岸花がよく似合う。

滝の城跡 所沢市ホームページ