徳川家康伝説が残る、びん沼川「昼間の渡し」

旧荒川の面影をとどめる「びん沼川」。さいたま市と川越市の境界線は、巨大な荒川と思いきや、この一帯は、さいたま市が荒川を西に越えてせり出し、びん沼川が境となっている。さいたま・川越、両市にとって辺境の地だ。

びん沼川周辺は釣り人が多く、晴れた日に岸辺を散歩すると気持ちよいので、10数年来、私はしばしばバイクで出かける。

先日、びん沼川を船渡橋を渡らず、北に向かうと「昼間の渡し」という史跡を発見した。江戸時代の渡し場の跡だ。

周辺には交通標識や道案内がないので、長年住んでいたのに気がつかなかった。荒川西岸でありながら、さいたま市に属するため、川越市に住む私は、自治体の広報誌等で情報を得る機会がなかったのかもしれない。

下は渡し場にある案内板の解説。

昼間の渡しと徳川家康伝説

大宮と河越方面を結ぶ道が荒川を越えるには、かつては渡し船に頼っていました。大宮では宝来のの「老袋の渡し、遊馬(西遊馬)の「千手堂の渡し」と、当地に伝わる「昼間の渡し」がありました。
伝説によると天正(16世紀後半)の頃、徳川家康が川越から岩槻へ向かった時、この渡し場へさしかかった頃には日がトップリと暮れてしまいました。これを知った村人はかがり火をたき、手に手に松明をかざして家康の一行をお迎えしました。その明るさがあたかも昼間のようだったので感激した家康は、渡し守に川岸あたりの土地を与え、姓を「昼間」と名乗らせたというものです。
江戸〜大正期には飯田河岸として使われ、川岸には船頭小屋・筏宿・茶屋などがあり賑わいを見せたようです。なお、県道が新設された明治末には、現在の船渡橋付近に渡し場も移動したようです。現在は河川改修により新河岸川放水路がびん沼川に合流、旧荒川の面影は湯来町から飯田新田の一部で見られるだけとなりました。
薬師堂(100メートル南)の境内にある石造の馬頭観音には「右 世野町 大ミヤ 岩つき道」「左 飯田渡船 川こえ道」と彫られ、古い道が東西を結んでいたことを伝えています。

さいたま市教育委員会

そして、案内板に書かれた周辺の地図。

渡し場には2艘の船が繋留されていたが、日頃、使われている形跡はなかった。そもそも、対岸はどこになるのだろう? 対岸の船着場が分からないので、漁業用の船着場にしか見えない。

船着場は県道から離れており、船渡橋を渡る自動車の音も聞こえず、とても静か。川を渡る風の音が聞こえるほど。

小さなベンチも一つあるので、缶コーヒー片手に、ぼーっとすごすにはよい場所だった。