狭山の城址「城山砦跡」、杉木立の散歩が気持ちいい

川越と狭山を結ぶ県道280号線から、両側が畑の未舗装の道路へ。砦というよりも、ただの林に見える。

お隣、狭山市に、河越夜戦に関係がある砦跡があることを知り、出かけた。川越からクルマで20分弱。入間川の西岸、智光山公園の近くにある。

砦の跡ということで、「小さな土塁に看板程度だろう」とたかをくくっていたら、決して大きな規模ではないけど、郭や堀の跡もしっかりと残っていた。砦跡はうっそうとした杉木立になっていて、なかなか楽しい散歩だった。

入口に駐車場はないが、人通り、車の通りともにほとんどないので、駐車可能

この砦は、1645年(天文14年)9月から半年近くにわたり、後北条氏の手に落ちた河越城を奪い返すため、関東管領・上杉憲政が陣を敷いたことから「上杉砦」と呼ばれていたらしい。河越夜戦で山内、扇谷、両上杉氏が破れた後、この砦も北条氏康方の手に移ったと考えられている。

その一方、鎌倉時代に畠山重忠に従った柏原太郎の館跡ではとも考えられたり、そのほか、南北朝時代に鎌倉公方・足利基氏が入間川に滞陣した際の出城とする説や、1496年(明応5年)に上杉顕定が上杉朝良方の河越城を攻めたとき、顕定と手を結んだ足利政氏が着陣したところという説もある。

いずれにせよ、鎌倉街道に近く、戦国時代の武将としては押さえておきたい丘だったのでは。

砦は、本郭、二ノ郭、三ノ郭、三つの郭(くるわ)から成っていたが、現在、残っているのは、本郭と二ノ郭の跡。下は案内板に添えられていた砦の地図。

以下、案内板に書かれた説明文を書き起こしておく。

狭山市指定文化財 史跡
城山砦跡

 城山砦跡は、江戸時代後期の書物の『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政が、後北条氏に奪われた川越城を奪還すべく包囲した際にここに陣を敷いたとされており、江戸時代後期には「上杉砦」と呼ばれ、既に四段程の遺構しか残っていない、と書かれています。
 現存する面積は約7000平方メートルで、入間台地のやや舌状の部分にあり、沖積面から約10メートル上の河岸段丘に、東から本郭、二ノ郭と造られています。本郭は崖面以外を高さ約3メートルの土塁で囲われ、その外側には現存する深さが約3メートルの空堀があります。また、その更に外側に、高さ約1メートルの堀が残っており、狭いながらも郭を構成していたことがわかります。
 平成10年度に本郭周囲のほ場整備に伴って発掘調査が行われ、最も外側の土塁状の高みの外に、更に深さ3メートルの堀が検出されました。堀の底や壁には、堀を掘ったときについたと考えられる鍬の痕も残っていたため、砦は、造られて間もなく放棄された可能性が出てきました。検出された堀は保存するために埋め戻され、現在は道路になっています。
 平成18年度に、学術調査のために行われた本郭の内側の空堀の調査では、現況より更に約2メートル深く掘られている形跡が発見されました。また、深い堀が崩れないように押えるための修復したような跡も検出されました。
 さらに、平成22年度の小口部分の確認調査では、中世のカワラケ(小皿)の章は小破片が出土しています。

 平成26年2月 狭山市教育委員会

入り口を入ると、本郭と二ノ郭を分ける道(写真左下)に連なる。また、左手には本郭を囲むような高さ3メートルほどの土塁がある(写真右下)。杉木立の散歩道のようになっていた。

また、二ノ郭にはお稲荷様の小さな祠がある。赤い旗が武骨な砦跡に彩りを添えていた。

本郭から東側、入間川方面は見晴らしのよい斜面になっていて、新興住宅が屋根が並んでいる。

中世の丘と現代の住宅地、映画『千と千尋の神隠し』の最初のシーンを思い出した。

Googleマップで城山砦跡の場所を確認

指定文化財「城山砦跡」(狭山市ホームページ)