牛込城址、都心・神楽坂にある戦国時代の館跡へ

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光照寺・牛込城址(新宿区袋町)
東京都心の城址といえば、あまりに江戸城の存在が大きくて、その他の城はまったく存在感がない。渋谷城、牛込城、志村城等、徳川家康が江戸に移る以前、現在の東京23区内にもいくつかの城があった。ただ、都市開発に伴う破壊で、当時の面影を知ることは難しい。

昨日は神楽坂近くにある牛込城を訪れた。渋谷城と並び、都心のど真ん中にある城址だ。

飯田橋方面から神楽坂を上り、Google Mapを頼りに牛込城を探したが、ポイントは住宅地の真ん中を指している。住宅地を一周し、光照寺というお寺の境内がそれにあたることを発見した。光照寺は日本出版クラブの建物の前。仕事で何度か訪れていた。こんな縁ある建物の前が城址だったとは! 城址巡りを始めて、身近な土地の由緒を知り、驚くことが本当に多い。灯台下暗しだ。

光照寺・牛込城址(新宿区袋町)
光照寺は本堂があり、墓地がある、広くもなく狭くもない、一見ありふれた浄土寺のお寺だった。もともと神田にあったのだが、江戸時代初期に、牛込城が取り壊された跡に移転したらしい。城址の面影はまったくない。新宿区教育委員会による案内があるくらい。下が案内板に書かれた由来の写し。

新宿区登録史跡
牛込城跡

所在地 新宿区袋町15番地
登録年月日 昭和60年12月6日

 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 堀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532〜55)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取り壊された。
 現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転したものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館鯉鮒の墓」などがある。
 平成7年8月

東京都新宿区教育委員会

「神楽坂を拠点に、赤坂・桜田・日比谷付近を領有」とは、今の世なら日本一の大資産家だったはず。

それはさておき、光照寺では境内に出羽松山藩主の酒井家歴代の墓が残っていた。

光照寺・酒井家墓地
牛込城址を目的に訪れたが、それよりも立派な大名家の墓石群に目を奪われた。

光照寺・酒井家墓地
下はお墓の案内の写し。

出羽国松山藩主酒井家墓地

 この墓域は出羽の国松山(松嶺)藩主酒井家一族の墓所である。
 松山藩は徳川の譜代大名であり、庄内藩初代藩主酒井忠勝の三男忠恒が分家として正保4年(1647)2万石で創設された。明治の廃藩置県に至るまで八代を数える。このうち、三代藩主忠休が寛延2年(1749)より26年間幕府の若年寄の要職を務めた功により、安永8年(1779)上野国に五千石が加増され、築城も許された。
 光照寺には初代忠恒以下代々の藩主及び妻子の墓があるが、一族のうち江戸で死去したものは光照寺に、国元で死去したものは、酒田市松山心光寺に葬られた。現在同寺には国元の有志により三代の廟所が設けられている。八代以降数代は、カトリックに改宗したため、墓所は台東区谷中に移された。
 江戸期における大名墓は、一般に国元ではよく保存されているが、府内のものは次々に消失している。新宿区内では当寺のものを含む数箇所のみである。

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