大宮の禅寺・普門院にある城址「大成館跡」へ

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普門院・大成館跡
大宮の街なかにある曹洞宗のお寺・普門院、今ではお寺よりも、経営する幼稚園の方が近辺の住民には知られていそう。

村山党の武士、金子一族の居館だった

普門院は600年近く歴史を持つ古刹。もともとは室町時代、この一帯を治める武士・金子大成(かねこ・おおなり、生年不詳-1435)の居館があった。大成は、鎌倉時代初期、源氏に仕えた武蔵七党のうち村山党の金子家忠の末裔だ。1426年(応永33年)、ここを訪れた仏僧・月江正文に帰依し、剃髪。居館を寺院とし、山号を大成山、寺号を普門院としたのが寺のいわれ。「大成」の地名は今でも残っている。

下はさいたま市のホームページより転載。

さいたま市指定史跡
大成館跡

 中世、大成及び植田谷領佐知川(現西区佐知川)を領地した金子駿河守の居館跡です。応永33年(1426年)、駿河守は関東を巡って仏法を説いていた曹洞宗の高僧・月江正文に帰依し、自ら居館を禅庵に改めたと伝えらています。これが現在の普門院の始まりだといわれ、普門院は山号を「大成山」と称します。
 門前には、西馬場、鍛冶屋堤、大手などの小名も残り、大成中を建設するまでは、空堀跡を見ることができました。

昭和32年3月6日指定

周辺は住宅地が密集する市街地。残念ながら室町時代の居館の面影はまったく見られない。

どちらかというと、普門院は城址よりも、小栗忠順(小栗上野介)の墓で知られる。

なぜ、禅寺の境内に機雷があるのか?

小栗忠順は江戸時代末期の幕臣。1860年(安政7年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国。幕府の洋式軍隊の整備や、横須賀製鉄所の建設などを行った。徳川慶喜の恭順方針に反対し、薩長への主戦論を唱えたため罷免。その後、薩長軍に捕らえられ斬首された。

ただ、後年、近代化を先んじた人物として高く評価され、大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語り、東郷平八郎は「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と述べたという。

普門院・大成館跡
境内で、観音菩薩の石像に並んで、鉄製のポケモンのモンスターボールのようなものを見つけた。前の石碑には「海軍省」という文字が彫られている。なんと機雷だった。隣に錨と砲身も置かれていた。これらは1934年(昭和9年)に、横須賀に造船所を建設し、海軍の基礎を作った小栗の業績を顕彰して設置されたらしい。

室町時代、武士の居館から禅寺に。近代には海軍の崇敬を集める地に。そして現代は大宮周辺で人気の幼稚園に。数奇な運命をたどる城址だ。

普門院幼稚園